孤独を恐れない勇気


孤独を恐れる人は多い。

誰かと一緒にいること、何かのコミュニティに所属することで、安堵感に浸る。

別にそれ自体を否定しているわけではない。誰だって孤独は辛いし、誰かと一緒にいるのは楽しい。共感してもらえると嬉しいし、自分の知見を広げてくれるのは他人だ。だが、孤独を避けることが人と繋がる理由になってはいけない。友であることは友である理由にはならない。にも関わらず、慣れ合いだけの関係を保ちながら疲弊している人はとても多いのが現実だ。


孤独を恐れ、コミュニティからの孤立を避けるためだけに人と繋がろうとすれば、必ずそこに歪みが生まれる。
誰かに合わせるということは自分を他人に同調させる行為だからだ

その歪みはストレスとなり蓄積され、思考も身動きも鈍らせる。孤独を避けるためだけの繋がりは自分を縛る鎖にしかならない。その鎖は自分の弱さや自信のなさの象徴。誰かと一緒でなければ何もできない、何も言えないような人に何かを成すことはできない。

大切にすべきは、素の自分で繋がる縁だ。そのためにはまず素の自分をさらす必要がある。嫌なものを拒むのはもちろん、自分の好きなこと、嫌いなこと、苦手なところや、ダメなところは普段から発信したほうがいい。誰にでも短所はあるのだからそれを隠す必要はない。

例えば、俺は人付き合いが苦手だ。誰かに合わせることに煩わしさを感じる。団体行動も苦手。基本的に自由気ままな1人行動を好む。だが、誰かと話すのはとても楽しいし、ずっと1人だと寂しい。まぁ…ただの自己中だww 人との距離感をとても大事にしている。

同棲なんて有り得ない。親や兄妹でさえ無理だったのに、他人との共同生活なんてハイレベルなコミュニケーション、俺にできるわけがない。この先、誰かと一緒になっても相手とは距離を置きたい。週末婚ならぬ月末婚ぐらいの距離感で。。。(金はちゃんと稼いで送ります…w)

こんな身勝手な性格なので、今、友と呼べる人は僅かしかいないが何も問題もない。今繋がっているのは俺の理解者(≠共感者)だけだ。視点を切り替える技術の話と混合しないで頂きたいが、他者視点を意識しなければいけないのは自分の目的を果たす時だけ。あくまで主体性が根底にある。本記事で伝えたいのは他者視点で生きてはいけないということ。

それに必要なのが孤独を恐れない勇気=嫌われる勇気だ。

この本を読んで衝撃を受けてから不要な縁は全て切り捨てた。

自分の実力を周囲に認めさせたい、という承認要求からも開放された。他人からどう思われようが気にしない。会社の成長さえもどうでもよくなった。この反動は承認要求に思い悩んだ人ほど大きいのだと思う。

他人に認めてもらうことで自分を肯定しようするのは、自分の自信のなさからくる心の弱さだ。自信とは自分を信じること。他人に補完してもらわなくとも自己完結出来る。

だから素の自分で人と接すればいい。それで孤立するのならそこにあなたの理解者はいないということ。相手を理解し、理解されなければその繋がりに何の価値もない。

例え学校でイジメにあって孤立しようが爪弾きにされようがそんなことはどうでもいい。それが自分の素を出した結果なのであれば、そこにあなたの理解者はいないというだけ。

家庭や学校など世界から見ればクソ小さなコミュニティにすぎない。今やオンラインで世界中の人と繋がれるのだからさっさと切り捨てて自分が理解できて、理解される友を探せばいい。自分を押し殺して他人に無理に合わせる必要はないし、他人を自分に合わせようとするのも驕った行為だ。

慣れ合いなんて、いつまでも同じ場所に止まらせる悪習でしかない。片方だけが搾取するような関係も与える側が疲弊するだけだ。互いに理解し与え合えて高め合える関係を見つけよう。俺はそれが友だと思う。

終演!